猛獣と命を懸けて戦ったのは誰?ローマ・コロッセオの歴史

世界遺産
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こんにちは。やっす(@yassu_blog)です。

2000年以上昔、古代ローマ時代の人々も現代人と同じくスポーツ観戦、競技観戦に魅了されていました。
その競技が行われた場所が現代でもイタリア有数の観光地となっているローマのコロッセオです。
この記事ではコロッセオはなぜ作られたのか、コロッセオで戦っていたのは誰だったのかなど、ローマのコロッセオの歴史について解説していきます。
ローマ帝国時代の民衆の最大の娯楽コロッセオの歴史をみていきましょう。

こちらの記事はYoutubeにて図も交えて解説しているため、合わせてご覧ください。

誰が作り、誰がなぜ闘った?イタリア・コロッセオの歴史

コロッセオはどこにある?

コロッセオはイタリアの首都ローマの中心地にあります。
この近くにはフォロ・ロマーノやパンテオンなどの観光地が集まった場所です。
ローマは観光地が密集しているので、歩いて散策出来ます。

コロッセオとは?

コロッセオはローマ帝国時代の競技場です。
正式名称はフラウィウス円形闘技場と言います。
コロッセオは直径188m高さ48mもあり、50000人以上を収容できたと言われています。
ちなみに現在日本で一番大きい競技場である新国立競技場は直径350高さ47m収容人数68000人なので、コロッセオは新国立劇競技場より一回り小さい程度です。
そんな競技場が2000年前にあったというのは驚きですね。
このころのローマの人口は100万人程度だったと言われており、人口の5%もの人を収納できることからも、いかにコロッセオがローマ市民に重要な建造物であったかがわかります。

続いてコロッセオの内部構造についてです。
コロッセオは以下のような構造でできています。

・地下通路
・アリーナ
・観客席

地下通路は猛獣や剣闘士たちの待機場となってました。ここで待機していた猛獣や剣闘士は地下から巻き上げ機などで引き上げられて、アリーナに登場し、戦いました。
またこの地下通路は2021年から公開され、現在は一般の人でも見学が可能となりました。

剣闘士たちが戦っていたアリーナは地下通路の上に当時は木の板を貼って作られていたとされています。
また、観客席は4階層になっており、階層ごとに観客の身分が異なっており、1階が貴族、2階が騎士、3階が市民で4階は奴隷および当時市民権を持たなかった女性が座ったと言われています。
上に行くほど低い身分の人が座っていたということになりますね。

コロッセオの歴史

それではコロッセオの歴史を解説します

西暦70年 建設開始

当時のローマ皇帝である、ウェスパシアヌス帝によりコロッセオの建設が開始されます。
直前の西暦68年までは暴君として有名なネロが実権を握っていたこともあり、政治面でも財政面でもローマ帝国は混乱していました。
その時代はローマの大火が発生したり、その後ネロがキリスト教徒を迫害したり、気に入らない政敵を殺害するなど自分勝手な行動をしていたため、ローマ軍が反乱を起こし、ローマ内戦へとつながり、前年の西暦69年には4人もの皇帝が擁立されました。
そんななかウェスパシアヌスが実権を握って、市民にたまった不満を取り除こうと考えます。
その対策の一つとして暴君ネロがローマの中心に自分のため建設した黄金宮殿ドムス・アウレアの土地をローマ市民に返すとして、その土地への多くの人が楽しめるコロッセオの建設を命じました。

西暦80年 完成

そうして10年ほどの歳月をかけて西暦80年ティトゥス帝の時代にコロッセオは完成します。

完成直後は完成を記念して100日間続けて剣闘士や猛獣たちによる競技が行われました。
この100日間の戦いの中で数千もの猛獣や人が亡くなったと言われています。
当時はこの派手な戦いが市民を熱狂させる娯楽だったということです。

実際コロッセオではどのような競技が行われたのでしょうか?
その多くは次のようなものでした。

・剣闘士同士の戦い
・剣闘士と猛獣との戦い
・死刑囚の処刑
・模擬海戦

人々は人間や猛獣の流血や死を見ることを楽しみにコロッセオに集まりました。
また剣闘士として戦ったのは奴隷・死刑囚・捕虜などでした。ただし中には力試しで自ら出場する猛者もいたそうです。
彼らは剣闘士のどちらかが死ぬかもしくは猛獣を殺すまで戦い続けました。

当時はこの派手な戦いが市民を熱狂させる娯楽だったということですね。
また戦いで勝った剣闘士は人気者になり、囚人であっても自由を勝ち取ることができるような場合もあったため、剣闘士は年に数回の試合に勝つために一年中訓練をつんでいたそうです。まさに人生をかけた戦いだったということですね。

また、コロッセオで行われた模擬海戦ではなんとアリーナに水を張って、アリーナの中に実際に船を浮かべて戦ったそうです。この模擬海戦はローマ市民に特に人気があったと言われています。
アリーナに水を張るというのは現代でもなかなか考えにくい、高度な技術です。

こうして400年ほど、コロッセオでの剣闘士たちの戦いはローマ市民の娯楽として楽しまれました。

4世紀 コロッセオの衰退

しかし、4世紀ごろにはローマ帝国のキリスト教化によって民衆の考え方に変化があり、剣闘士同士の殺し合いを野蛮に思うようになり、
ローマ帝国の国力も衰退してきたことで剣闘士競技は終了しました
ローマ帝国のキリスト教化についてはバチカン市国の歴史でも解説しているので、合わせてみて下さい。

参考記事 国全体が世界遺産!?バチカン市国とキリスト教の歴史

こうしてコロッセオは競技場として使われなくなり、その巨大な競技場を作っていた石材は他の建築物を作るのに使われました
コロッセオの石材が再利用されている建造物としてはバチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂などがあります。

18世紀ごろ 聖地として保存開始

長らく放置され、雨風にさらされていたコロッセオですが、18世紀ごろから保存が開始されます。
その発端はローマ教皇たちがコロッセオをキリスト教の聖地とし、保存することを主張したことでした。
諸説あるものの4世紀以前にローマ帝国で迫害されていたキリスト教徒がコロッセオで殉職したと言われているためです。
今ではローマと言えばキリスト教のイメージが強いので不思議な感じがしますが、元々キリスト教はローマ帝国においても迫害の対象とされていた時代があります。
また迫害され、逃げたキリスト教が住んでいたと言われているトルコのカッパドキアの歴史も別の動画で解説しています。

参考記事 キノコ岩はどうできた?誰が作った?カッパドキアの知っておきたい歴史

1980年 世界遺産登録

1980年に「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂」としてパンテオンやサンタンジェロ城、フォロ・ロマーノなどとともに地中海を支配したローマ帝国の文化的な功績を示す遺産として世界遺産に登録されました。

まとめ

コロッセオは「コロッセオが滅びるとき、ローマは滅び、その時世界も滅びる」とまで言われたローマ帝国のシンボルです。
ローマに行った時は当時のローマ人の気持ちでコロッセオを体験してみて下さい。

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