なぜ清水寺は崖に建っている?知っておきたい清水寺の歴史

歴史
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こんにちは。やっす(@yassu_blog)です。

清水寺といえば、「清水の舞台から飛び降りる」という慣用句もある通り、崖の上の高いところに建設されています。
ではなぜ清水寺が崖の上に建てられているかご存知ですか?
また、 実際に清水の舞台から飛び降りることが流行した時代があったとも言われています。
それはなぜでしょう?

この記事ではそのようなことを解説していきながら、清水寺の歴史を解説していきます。
また、こちらの記事は動画でも解説しています。

なぜ清水寺は崖の上に建っている?知っておきたい清水寺の歴史

清水寺はどこにある?


清水寺はご存知の通り、京都市内にあります。
清水寺の裏はすぐ山になっています。なぜ山の中にあるのかという点も実は歴史と深い関わりがあります。
京都駅からはバスで五条坂という坂のふもとまで行って、そのあと坂を歩いて登っていくのが一般的な行き方です。
なかなか坂がきついので歩きやすい靴で行くようにしましょう。

清水寺の歴史

778年 創建

時代は奈良時代で、まだ都が京都ではない時代です。平安京への遷都が794年なので、平安時代が始まる少し前の時代です。
この時代に延鎮(えんちん)という僧が今の清水寺がある、音羽山で金色の水流が流れているのを見つけました。
これが今の音羽の滝です。清水寺に行った方は知ってると思いますが、音羽の滝というのは、3本の滝が流れていて、それぞれ「学業」「恋愛」「健康」のご利益があり、自分の叶えたい願の滝の水を飲むのが良いとされています。
そして延鎮がこの水流をたどって山に入ると、そこには、行叡居士(ぎょうえいこじ)という200歳になる修行者がいて、千手観音のことを念じ修行を続けていました。
行叡居士は延鎮に会うと、「お前が来るのを待っていた。後は頼む。」といって旅立ってしまいました。
延鎮はこの行叡居士が実は千手観音の化身だったと悟り、千観音像を作って、行叡居士が住んでいたお堂に安置しました。
このお堂が清水寺の始まりとされています。

798年 坂上田村麻呂による大規模改築

延鎮が音羽山に入った2年後、後に征夷大将軍となる、坂上田村麻呂が病気の妻のため、薬となる鹿の血を得るために、この山で狩りをしていました。
しかし、そこで坂上田村麻呂は延鎮に出会い、身勝手に動物を殺すのはよくないということを説教されます。
その説教が身に染みた坂上田村麻呂は、その後征夷大将軍になり日本の東に住んでいた蝦夷という集団の討伐に行く際も、この清水寺を参拝しました。
そして無事討伐が成功したのち延鎮とともにこの清水寺の本堂を大規模に改修しました。

なぜ清水寺は崖の上に建っているの?

清水寺に行ったことがある方はご存知でしょうし、行ったことのない方も「清水の舞台から飛び降りる」という言葉からわかる通り、清水寺は崖の高いところに建てられています。
ではなぜ高いところに清水寺は作られたのでしょう?
その答えは、清水寺を観音菩薩が降り立つとされている場所に見立てる必要があったからです。
上記の通り、清水寺は観音菩薩を祀っています。
そして、仏教の世界では観音菩薩は「補陀落(ふだらく)」というインドの南にあるといわれる山に降り立つとされています。
その補陀落では、崖の上にお堂を建てると言われているため、それに倣って清水寺も現在のように崖の上に建てられています。
また、今では本堂から外に出たところに足場を組んで舞台が作られています。
この舞台は参拝者の増加によって、本堂では参拝客を収容できなくなったため、あとから足場を組んで無理やり作ったものにです。
そのため、清水寺が作られた当時は本当に崖のギリギリにお堂があったといわれています。
ですがこの舞台おかげで現在では清水寺から京都市内を一望することが可能です。

清水の舞台から飛び降りる

背水の陣のように覚悟を決めて何かに臨むとき、「清水の舞台から飛び降りる気持ちで…」とよく言います。
実は江戸時代には実際に数多くの人が本当に清水の舞台から飛び降りていました。
たくさんの人が飛び降りた背景としては、江戸時代には清水の舞台から飛び降りて、無事に立ち上がることができれば願いが叶うといわれていたからだそうです。
そのため、恋愛に悩んでいる人などがこぞって飛び降りたと言われています。
また、仮に死んでしまっても観音さまに見守られているから極楽浄土に行けるという考えもあったと言われています。
地上から舞台までの高さは約12メートルと大体4階建てのビルほどの高さがあります。
しかし実際には150人以上が飛び降りて、8割ほどは生存していたとされています。
ちなみに現在では飛び降りは禁止になっています。

9回もの火災

このように1200年以上も続いている清水寺ですが、その間記録に残っているだけでも9回もの火災に見舞われています。
ご存知の通り日本国内が一つになったのはつい最近のことで、それまで国内では数多くの争いが行われてきました。
そして、長年朝廷がおかれた京都にある清水寺は、争いのたびに戦火に巻き込まれてきました。
特に清水寺が危機的状況に置かれたのは、1467年に始まった応仁の乱の時です。
この時は日本中が争いに巻き込まれましたが、京都では20万人以上の兵が争ったといわれており、この際に清水寺も全焼し、再建には数十年を要しました。

1994年世界遺産登録

そして1994年に「古都京都の文化財」として日本で5件目の世界遺産に登録されます。
「古都京都の文化財」は清水寺のほか、金閣寺や下鴨神社、二条城など17の建造物などで構成されています。
このようにして、現在では清水寺は日本でも有数の観光地となりました。

まとめ

清水寺は千手観音を祀るお寺であるため、千手観音が降臨するといわれる場所にならって崖の上に作られていました。
また、舞台から飛び降りて立ち上がることができれば願いが叶うとされ、江戸時代には150人以上もの人が清水の舞台から飛び降りていました。
このような歴史を知っていると更にその高さを実感できると思いますので、是非清水寺に訪れて見て下さい。

参考記事 金閣寺は放火され全焼していた!金閣寺に行く前に知っておきたい歴史
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